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看板 EDGE
作者 EDGE (Everything will Flow)
標題 [wiki] 筋肉少女帯 (未完待續)
時間 2017-07-21 Fri. 00:42:00


http://ja.wikipedia.org/wiki/筋肉少女帯
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筋肉少女帯

基本情報
別名    筋少
King-Show

出身地   日本


ジャンル

ロック
ハードロック
ヘヴィメタル
プログレッシブ・ロック
ニュー・ウェイヴ
パンク
オルタナティヴ・ロック
トラウマ・パンク等(大槻による自称)



活動期間        1982年 -
レーベル        ナゴムレコード
(1984年 - 1988年)
トイズファクトリー
(1988年 - 1993年)
MCAビクター
(1994年 - 1996年)
マーキュリー・ミュージックエンターテイメント
(1996年 - 1998年)
トイズファクトリー
(2007年 - )

公式サイト      筋肉少女帯 -Official Web Site-

メンバー
大槻ケンヂ (ボーカル) [Ohtsuki Kenji]
内田雄一郎 (ベース)
本城聡章 (リズムギター)
橘高文彦 (リードギター)

旧メンバー
三柴理 (キーボード、現サポート)
太田明 (ドラムス)
美濃介 (ドラムス)
関口博史 (ギター)
石塚BERA伯広 (ギター)
友森昭一 (ギター)
他全17名




筋肉少女帯(きんにくしょうじょたい)は、1980年代後半から1990年代後半にかけて活
躍し、2006年に活動を本格再開した日本のロックバンド。通称は「筋少」(きんしょう
)で、アルファベットでは「King-Show」(初期は「KIN-SHOW」)と記す。

筋肉少女帶(Kinniku Shoujo-Tai),自1980年代後期至1990年代後期__,
2006年再度展開__的日本搖滾樂團。通稱「筋少」,羅馬拼音寫作「King-Show」
(早期為「KIN-SHOW」)。


経歴

結成~インディーズ期
1979年に当時中学生だった大槻ケンヂと内田雄一郎が組んだバンド「ザ・ドテチンズ」
(別名ドンズ。当時の大槻のあだ名より命名)が始まり。大槻は健康青竹踏みを打ち鳴
らし、内田はエレクトーンを掻き鳴らした。

ドンズが解散した後の1982年2月、二人は高校進学を期に再びバンド「筋肉少年少女隊
」を結成。大槻は「JAGATARA」のようなファンクバンドを志向していたものの、練習ス
タジオでファンクが上手く説明できず、結局「ディープ・パープル」の様な曲調になっ
たそうである(このやりとりによって生まれたのが代表曲のひとつ「釈迦」)。同4月6
日のライブハウス新宿JAM「伝染病解散ライブ」にてライブデビュー。

組團~地下時期
1979當時還是國中生的大槻(ㄍㄨㄟ)Kenji與內田雄一郎組過的團「The ドテチンズ」
(待)(別名Donsu,由當時大槻的__名而命名)開始。大槻____內田___


Donsu解散之後的1982年2月,兩人就讀高中期間再度組成樂團「筋肉少年少女隊」,
大槻以組一個像「JAGATARA」那樣的funk音樂樂團為目標在練團室而熟練Funk__
結果卻成為看起來像「深紫色」樂團那樣的音樂__(由此做法而生的代表曲為
「釋迦」一曲)。同年4月6日在新宿JAM Live House的「傳染病解散Live」表演出道。(?)


1984年、バンド名を「筋肉少女帯」に改める。とはいえ、まだまだこの頃のライブでは
大槻がうどん粉で顔面白塗りの上、裸体に包帯を幾重にも巻きつけて歌唱するなど、「
当時は学園祭バンドみたいなノリで、完全にキワモノ」(大槻談)であった。

同じ頃、後に第22期筋肉少女帯メンバーとなる5人がそれぞれのバンド(大槻・内田は
筋少、本城は筋少・有頂天・エッグレイヤー、太田はYTJ、橘高はSLEAZY LUSTER)で
YAMAHAのコンテストに出場。たびたび顔を合わせる旧知の仲だった。筋少はパフォーマ
ンス賞を受賞。橘高、太田はそれぞれベストギタリスト賞、ベストドラマー賞を取るな
ど、対照的な成績を残している。


這個期間,之後成為第22期筋肉少女帶的五個人此時所屬的樂團(大槻與內田為筋少,
本城為筋少、有頂天與Egg Layer,太田為YTJ,橘高為SLEAZY LUSTER)
在YAMAHA的比賽中出場,在屢次的比賽中會面熟識成為朋友(?)。
筋少得到最佳表演獎,橘高與太田各自獲得最佳吉他手獎與最佳鼓手獎。
留下這個比較的成績(?)

1985年に三柴江戸蔵が参加(当初はサポート。1986年3月正式加入)。

1987年、ナゴムレコードより発売の自主制作EP『高木ブー伝説』が話題を呼ぶ。冗談画
報、11PMなどに出演。その際演奏した高木ブー伝説、ドリフターといった楽曲の歌詞が
問題となったりもした。そのためドリフターズ所属の事務所を名乗る者から苦情の電話
が寄せられ、『高木ブー伝説』は結局自主回収という形で販売中止となる。しかし、そ
の電話は後に悪戯と発覚する。大槻によれば、この一件で筋肉少女帯は一時解散の危機
に立たされたが、他ならぬ高木ブーの擁護によって事なきを得たという。


1985年時三柴江戶藏(keyboard手)加入(初始時為支援樂手,1986年3月正式加入)。

1987年由Nagom發售的自行製作單曲『高木BOO伝説』成為討論話題。在「冗談畫報」、
「11PM」等節目演出。當時演奏的『高木BOO伝説』
The Drifter對於這首歌的歌詞___(?)
為此而收到聲稱是The Drifter所屬事務所的投訴電話
結果導致Nagom唱片回收『高木BOO伝説』而停止販賣
但是後來發現那通電話是惡作劇
對於大槻  此一事件一度造成筋肉少女帶樂團被迫解散的危機
讓其他不是高木BOO的擁護者哭了 (???)

メジャーデビュー~バンドブームの盛衰 [編集]

様々なメンバーが加入と脱退を繰り返す中で活動を続け、1988年6月、トイズファクト
リーよりアルバム『仏陀L』・シングル『釈迦』でメジャーデビュー (第18期メンバー
) 。しかし、その後もメンバーが定着することはなく、半年後に発売された2ndアルバ
ムは21期メンバーで録音された。

1989年2月の三柴脱退を受け、橘高文彦の加入・本城聡章の復帰が「大槻ケンヂのオー
ルナイトニッポン」にて発表される (第22期) 。筋少のオリジナル音源への参加に先駆
け、「オールナイトニッポン」の企画から派生した「まんが道」(大槻と内田による変
名ユニット) の『ボヨヨンロック』において非公式ながら初のレコーディング。その後
、さらに同メンバーで録音された3rdアルバム以降ついにメンバーが定着し、以後10年
間メンバー交代が行われることはなかった。

主流出道~~樂團風潮的興衰

樂團在各種各樣的團員反覆的加入與離團之中持續活動。
1988年6月,由Toy's Factory發行專輯『佛陀L』與單曲『釋迦』而從主流樂界出道
(第18期團員)。但是之後團員編成也並沒有固定下來,半年後發行由第21期團員
錄製的第二張專輯。

1989年2月接受三柴離團,橘高文彥的加入與本城聰章的回團__
參加筋少的原始錄音的先驅__(?)
由「All Night Nippon」節目企劃衍生的「MANGA道」樂團(大槻與內田的化名組合)
的『Boyoyon Rock』成為非樂團官方成員的首次錄音(?)
並且由相同成員樂手所錄音完成的第三張專輯 之後團員固定(?)
此後十年間未曾更換過團員。

アルバム収録曲『日本印度化計画』が話題となり、続くシングル『元祖高木ブー伝説』
(『高木ブー伝説』のリメイク) が一躍大ヒット。大槻がオールナイトニッポンのパー
ソナリティを務めたことも相まって、一躍有名バンドへとのし上がっていく。「筋肉少
女帯の深夜改造計画」という看板TV番組まで持っていた。一方で、『ボヨヨンロック』
、『日本印度化計画』、『元祖高木ブー伝説』と笑いの側面の強い曲が立て続けにヒッ
トしたこともあり、はからずも世間にはコミックバンドという認知が俄かに定着しつつ
あった。大槻自身、この三作をまとめて「ボヨヨン・カレー・ブー」=「B・C・B」と呼
び、度々自虐的に当時の状況をネタにしている。


專輯收錄曲『日本印度化計畫』成為話題,接著單曲『元祖高木BOO傳說』
(『高木BOO傳說』的重製版)一舉大受歡迎。
對應(?)大槻曾擔任「All Night-NIPPON」節目的主持人,
一舉而讓筋少成為人氣大團。甚至擁有名為名為「筋肉少女帶的深夜改造計畫」
的電視節目。
在另一方面,『Boyoyon Rock』、『日本印度化計劃』、『元祖高木BOO傳說』
有著搞笑一面的好歌也持續締造佳績(?),
出乎意外的大眾將筋少固定認為是搞笑團體(?)
大槻自己也將此三作「Boyoyon・Curry・BOO」統稱「B・C・B」,屢次自虐地(?)
透露當時的狀況(當梗?)。


1990年2月7日には単独では初となる武道館LIVE。以後1994年まで通算4度、単独での武
道館LIVEを敢行する。

1992年発売のベストアルバム『筋少の大車輪』には、かつてのメンバーが一堂に集結。
新録音曲「大釈迦」が収録された。

バンドブームが去った1993年暮れには事務所からの解雇、レコード会社との契約打ち切
りも経験する。

1994年に橘高が、翌1995年に大槻がソロデビューするなど、メンバー各自での活動も多
くなっていった。


1990年2月7日,樂團首次單獨在日本武道館舉行演出。直至1994年為止總計四次,
單獨在日本武道館舉行演出。

1992年發售精選集『筋少的大車輪』,終於將先前團員齊聚一堂,
收錄新錄音曲目「大釋迦」。

樂團風潮消退後的1993年年底被經紀公司所解約,有被唱片公司終止合約的經驗。

1994年由橘高,與隔年1995年大槻等人先後單獨solo出道,
樂團成員各自的活動遽增。(?)


活動凍結~それぞれの道へ [編集]

1998年。22期メンバーでの活動に行き詰まり感を覚えていた大槻が、内田及び、三柴ら
かつてのメンバーと期間限定で「80年代の筋肉少女帯」を結成。LIVEツアーも行う(後
にインディーズよりビデオ発売)。この頃活動初期の新鮮さも消え去りバンドメンバー
の妻や恋人等が楽屋に入り浸り、ライブもルーティーンで倦怠感漂う状態と化していた
現状に大槻はバンドとしての活動限界を感じるようになる。

活動凍結~與各自的發展

1998年,以22期成員組合感覺到已經行不通,
以大槻、內田以及三柴為成員於限定期限內組成「80年代的筋肉少女帶」,
也舉辦巡迴演出(之後由地下唱片廠牌發行演出錄影帶)
這個時候已經失去了組團演出初期的新鮮感,樂團成員的老婆或女友等在後台留連
週而復始固定的現場
大槻似乎對於樂團活動而言有面臨瓶頸的感覺


バンドブーム衰退後も独自のスタンスを保ちメジャーシーンで活躍しつづけたが、1998
年7月の渋谷公会堂ライブを最後に太田が脱退。更に1999年5月には大槻がバンドのテコ
入れを想定したメンバーの交代を示唆し、後に橘高が脱退を表明。この事態が大槻の独
断による橘高外しと受け取ったファンの反発を招き、大槻が運営、管理するサイト上で
事態収拾を行うべく弁明の書き込みをするも逆に火に油を注ぐ形となり大槻の人格攻撃
にまで及ぶにまでに至る。この抗議を受けて精神的に疲弊した大槻は翌6月に脱退を表
明。内田雄一郎と本城聡章の2人のみとなった筋肉少女帯は事実上解散状態となる。し
かし2人は筋肉少女帯の名を守りつづけることを決意。大槻も「プロレスラーやイーグ
ルスも引退や解散を表明しながら、幾度にも渡り復帰や再結成を行っている」とし、「
解散」ではなくバンドとしての活動「凍結」を宣言した。

在樂團風潮衰退之後因為筋少保持獨特的立場而能在主流越界繼續活躍下去
但於1998年7月涉谷公會堂演出後鼓手太田離團
__
__
__
受到此抗議使得精神狀況疲憊不堪的大槻在1996年的6月表明離團
只剩內田雄一郎與本城聰章兩人的筋肉少女帶成為實際上的解散狀態。
但兩人決定保有筋肉少女帶的團名繼續下去
大槻也說「職業摔角手或老鷹合唱團也是表示過退休或解散,但又數次復出或重組」,
而聲明並非「解散」,只是樂團活動「凍結」。


その後、大槻は文筆活動と併行して「特撮」を結成し、様々なコネクションを通じ対バ
ン勝負を呼びかけて個人名義での活動も行う。橘高は脱退と前後する形で結成していた
「X.Y.Z.→A」に専念。太田は相川七瀬らのサポートの傍らドラム教室を開催。内田と
本城は他アーティストのサポートやプロデュース活動の他、「筋肉少女帯」(
KING-SHOW)としてサントラ製作やライブアルバム監修、イベント主宰などを行ってい
った。

在此之後,大槻參與文學活動也並行組成「特撮」樂團。
__
橘高專心致力於離團時那陣子組的「X.Y.Z.→A」。
太田除擔任相川七瀬的支援樂手以外,也一邊召開爵士鼓教室。
內田與本城擔任其他藝人的支援樂手與專輯製作活動以外,以「筋肉少女帶」
(KING-SHOW)為名製作原聲帶或監製現場演出專輯、舉辦活動等等。


仲直り~活動再開 [編集]

活動休止前後にはメンバー間で行き違いもあり、特に盟友関係と言っても良かった大槻
と内田は、その後「特撮」内で対立して内田が脱退するなど一時絶縁に近い状態となっ
てしまう。 しかし
大槻と橘高の所属バンド同士が競演する
内田と本城の主催イベントに橘高が参加し、「一夜限りの復帰」と銘打ってセッション
を実施
大槻・内田双方と交友があった元アンジーの水戸華之介が大槻のイベントにゲスト出演
した際に内田を登場させて仲直りの場を設けた(もともとは大槻が水戸に内田への出演
交渉を依頼。水戸は辛うじて内田の電話での出演を取り付けた形にしておいて、当日電
話しながら内田が登場するというサプライズを演出。)

樂團活動停止時期,團員間也有不合的狀況。特別是堪稱為盟友關係,曾經非常要好的
大槻與內田,

など、徐々に関係を修復していった。共演の際に筋肉少女帯の曲が演奏されることもあ
り、大槻と内田に至っては「仲直り」自体をイベントのネタとして使用するまでになる


2006年にはかつて大槻がケラ、内田と結成していたユニット空手バカボンが突如復活し
ライブを行った。さらに大槻と橘高が三柴らのサポートを受けて「大槻ケンヂと橘高文
彦」と称するコンビを組み、筋少ファンを公言する滝本竜彦原作・大岩ケンヂ作画のテ
レビアニメ『N・H・Kにようこそ!』に楽曲を提供。大槻、橘高参加時の往年の「90年代
の筋少」サウンドを髣髴とさせる楽曲となった(シングル盤には筋少時代の楽曲「踊る
ダメ人間」のセルフカヴァーも収録されている)。

同年4月から7月にかけて『週刊アスキー』誌上において大槻が『筋肉少女帯物語』第1
部を連載。大槻本人が明記しているようにフィクションのキャラクターも登場する「小
説」なのだが、当時のメンバーらの許可の元に、バンドブームに巻き込まれ、急激に人
気バンドになってしまった彼らを取り巻いていた状況なども語られている。

そして小説第1部の最終回掲載直前の7月22日。恵比寿で行われた「大槻ケンヂと橘高文
彦」のライブに、サプライズゲストとして内田と本城が登場。大槻と橘高の筋肉少女帯
再加入と、4人で同年12月28日に筋肉少女帯のライブを行うことが発表され、凍結状態
であったバンドは8年ぶりに復活を果たした(小説第1部のラストでも、大槻が復活を宣
言)。

2007年9月にはおよそ10年ぶりのオリジナルアルバムとなる「新人」を発売。

2008年9月21日に14年ぶり、単独では5度目となる武道館公演を行った。

活動再開から2010年現在までに計三枚のオリジナルアルバムをリリースしている。

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http://www.geocities.jp/yellowking_with_talkman/king-show1.htm
筋少之歷史
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http://matome.naver.jp/odai/2129800949301339501/2129801521301657003
健康青竹踏 的照片 (竹節橫剖後可踩的腳底按摩用健康踏板)

http://dic.nicovideo.jp/a/ナゴムレコード
地下音樂廠牌,Nagom唱片。
(有頂天/筋少/空手bagapon/人生["電器Groove"的前身])

http://ja.wikipedia.org/wiki/ケラリーノ・サンドロヴィッチ
KERA先生,Nagom唱片的老闆,有頂天與空手bakapon的團員。

http://ja.wikipedia.org/wiki/オールナイトニッポン
廣播節目


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※ 作者: EDGE 時間: 2017-07-21 00:42:00
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